日本(にほん)という国(くに)は、いったいどうやって生(う)まれたのか――。『古事記(こじき)』『日本書紀(にほんしょき)』が語(かた)る最古(さいこ)の英雄譚(えいゆうたん)が「神武東征(じんむとうせい)」だ。南九州(みなみきゅうしゅう)の日向(ひゅうが)から、瀬戸内海(せとないかい)を渡(わた)り、紀伊半島(きいはんとう)を迂回(うかい)し、ついに大和(やまと)の地(ち)で初代天皇(しょだいてんのう)として即位(そくい)する。兄(あに)の戦死(せんし)、熊野(くまの)での病(やまい)、八咫烏(やたがらす)の導(みちび)き、そして金鵄(きんし)の輝(かがや)き――。これは神話(しんわ)であり、同時(どうじ)に「日本建国(にほんけんこく)」の壮大(そうだい)なロードムービーである。さあ、初代天皇(しょだいてんのう)の旅(たび)を一緒(いっしょ)にたどってみよう。
出発――日向の地で、東を目指す決意
物語(ものがたり)の主人公(しゅじんこう)は、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)。のちの神武天皇(じんむてんのう)である。天孫(てんそん)・邇邇芸命(ニニギノミコト)のひ孫(まご)にあたり、日向国(ひゅうがのくに)――現在(げんざい)の宮崎県(みやざきけん)――の高千穂宮(たかちほのみや)で兄弟(きょうだい)たちと暮(く)らしていた。
ある日(ひ)、長兄(ちょうけい)の五瀬命(イツセノミコト)とイワレビコは話(はな)し合(あ)う。「もっと天下(てんか)を治(おさ)めるにふさわしい地(ち)が東(ひがし)にあるはずだ」――。『日本書紀(にほんしょき)』によれば、このときイワレビコは45歳(さい)。船軍(ふないくさ)を率(ひき)い、日向(ひゅうが)の港(みなと)から東(ひがし)へと漕(こ)ぎ出(だ)した。日本(にほん)という国(くに)の中心(ちゅうしん)を探(さが)す、壮大(そうだい)な旅(たび)の幕開(まくあ)けである。
同行(どうこう)したのは、長兄(ちょうけい)の五瀬命(イツセノミコト)、次兄(じけい)の稲飯命(イナイノミコト)、三兄(さんけい)の三毛入野命(ミケイリノノミコト)、そしてイワレビコ自身(じしん)の四兄弟(しきょうだい)。さらに多(おお)くの家臣(かしん)と兵士(へいし)たち。気心(きごころ)の知(し)れた家族(かぞく)と仲間(なかま)で固(かた)めた、まさに「兄弟ロード(きょうだいろーど)」の出発(しゅっぱつ)だった。けれど、この四兄弟(しきょうだい)のうち、大和(やまと)の地(ち)に立(た)てるのはたった一人(ひとり)だけ――その悲(かな)しい運命(うんめい)を、このときの彼(かれ)らはまだ知(し)らない。

豊国・宇佐・筑紫――歓待の九州ルート
船団(せんだん)が最初(さいしょ)にたどり着(つ)いたのは、豊国(とよのくに)の菟狭(うさ)――現在(げんざい)の大分県宇佐市(おおいたけんうさし)。ここで土地(とち)の豪族(ごうぞく)・宇佐津彦(ウサツヒコ)と宇佐津媛(ウサツヒメ)の兄妹(きょうだい)が、「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」という宮殿(きゅうでん)を急造(きゅうぞう)して大饗応(だいきょうおう)を催(もよお)した。長旅(ながたび)に疲(つか)れた一行(いっこう)にとって、この歓迎(かんげい)はどれほど嬉(うれ)しかっただろう。
その後(ご)、船団(せんだん)は北上(ほくじょう)し、岡水門(おかのみなと)――現在(げんざい)の福岡県遠賀郡(ふくおかけんおんがぐん)あたり――に至(いた)る。関門海峡(かんもんかいきょう)を抜(ぬ)けて北九州(きたきゅうしゅう)に寄(よ)り道(みち)したのは、地元(じもと)の豪族(ごうぞく)たちと同盟(どうめい)を結(むす)び、東進(とうしん)の足場(あしば)を固(かた)めるためだったと考(かんが)えられている。
この九州ルート(きゅうしゅうるーと)は、ただの通過点(つうかてん)ではない。神武天皇(じんむてんのう)以前(いぜん)から、九州北部(きゅうしゅうほくぶ)と畿内(きない)は海(うみ)の道(みち)でつながっていた。鉄(てつ)、土器(どき)、青銅器(せいどうき)――最新(さいしん)の技術(ぎじゅつ)と物資(ぶっし)が行(い)き交(か)うハイウェイ(はいうぇい)だったのだ。イワレビコはこの海上交易路(かいじょうこうえきろ)を熟知(じゅくち)した上(うえ)で、計算(けいさん)ずくで進(すす)んでいたに違(ちが)いない。
瀬戸内海航路――吉備で3年、船団を鍛え上げる
九州(きゅうしゅう)を離(はな)れた一行(いっこう)は、安芸国(あきのくに)――現在(げんざい)の広島県(ひろしまけん)――を経(へ)て、ついに吉備国(きびのくに)――現在(げんざい)の岡山県(おかやまけん)――にたどり着(つ)く。ここでイワレビコは「高島宮(たかしまのみや)」という行宮(あんぐう)を構(かま)え、なんと3年(ねん)も腰(こし)を据(す)えた(『古事記(こじき)』では8年(ねん)とも)。
3年(ねん)の間(あいだ)、何(なに)をしていたのか――。船(ふね)を新造(しんぞう)し、兵糧(ひょうろう)を蓄(たくわ)え、武器(ぶき)を整(ととの)え、兵士(へいし)を集(あつ)めた。つまり「大和侵攻(やまとしんこう)の最終準備(さいしゅうじゅんび)」である。吉備(きび)はのちにヤマト政権(せいけん)と並(なら)ぶ大勢力(だいせいりょく)となる土地(とち)。ここで力(ちから)を蓄(たくわ)えたことが、東征(とうせい)の成否(せいひ)を決(き)めたといっても過言(かごん)ではない。
難波・河内での挫折――兄・五瀬命の死
準備(じゅんび)万端(ばんたん)。船団(せんだん)はついに難波碕(なにわのさき)――現在(げんざい)の大阪湾(おおさかわん)――に到達(とうたつ)する。河内国(かわちのくに)の白肩津(しらかたのつ)に上陸(じょうりく)し、いざ大和(やまと)へ――そのとき、悲劇(ひげき)が襲(おそ)いかかった。
大和盆地(やまとぼんち)を支配(しはい)する豪族(ごうぞく)・長髄彦(ナガスネヒコ)が、大軍(たいぐん)を率(ひき)いて立(た)ちはだかったのだ。孔舎衛坂(くさえのさか)での激戦(げきせん)の最中(さなか)、長兄(ちょうけい)の五瀬命(イツセノミコト)が長髄彦(ナガスネヒコ)の放(はな)った矢(や)を肘(ひじ)に受(う)けてしまう。五瀬命(イツセノミコト)は叫(さけ)んだ。「我(われ)らは日(ひ)の神(かみ)の子孫(しそん)。なのに太陽(たいよう)に向(む)かって戦(たたか)うから負(ま)けたのだ。回(まわ)り込(こ)んで背(せ)に太陽(たいよう)を負(お)って戦(たたか)おう」――。
しかし傷(きず)は深(ふか)かった。船団(せんだん)が紀伊半島(きいはんとう)を南下(なんか)する途中(とちゅう)、紀国(きのくに)の男水門(おのみなと)で、五瀬命(イツセノミコト)は無念(むねん)の死(し)を遂(と)げる。最強(さいきょう)の兄(あに)を失(うしな)い、東征軍(とうせいぐん)は最大(さいだい)の危機(きき)を迎(むか)えた。
熊野迂回作戦――八咫烏が現れる
イワレビコは決断(けつだん)した。「正面突破(しょうめんとっぱ)は無理(むり)だ。紀伊半島(きいはんとう)をぐるりと回(まわ)り込(こ)んで、背後(はいご)から大和(やまと)に入(はい)る」――。これが伝説(でんせつ)の熊野迂回作戦(くまのうかいさくせん)だ。
しかし熊野(くまの)の地(ち)は険(けわ)しかった。荒(あ)れる海(うみ)、深(ふか)い山(やま)、毒気(どっき)を放(はな)つ大熊(おおぐま)。イワレビコをはじめ全軍(ぜんぐん)が病(やまい)に倒(たお)れ、絶体絶命(ぜったいぜつめい)の窮地(きゅうち)に陥(おちい)る。そのとき、熊野(くまの)の地元民(じもとみん)・高倉下(タカクラジ)が一振(ひとふ)りの霊剣(れいけん)「布都御魂(フツノミタマ)」を献上(けんじょう)。剣(つるぎ)の威力(いりょく)で軍(ぐん)は息(いき)を吹(ふ)き返(かえ)した。
さらに天(てん)から救(すく)いの使者(ししゃ)が舞(ま)い降(お)りる。三本足(さんぼんあし)の巨大(きょだい)な烏(からす)――八咫烏(ヤタガラス)である。高皇産霊神(タカミムスビノカミ)が天照大神(アマテラスオオミカミ)の命(めい)を受(う)けて遣(つか)わしたこの神鳥(しんちょう)が、軍(ぐん)の先頭(せんとう)に立(た)って、険(けわ)しい山道(やまみち)を導(みちび)いていく。今(いま)でも日本(にほん)サッカー協会(きょうかい)のシンボル(しんぼる)として知(し)られる、あの八咫烏(やたがらす)の伝説(でんせつ)はここから始(はじ)まった。
吉野・宇陀――山越えと金鵄の輝き
八咫烏(やたがらす)に導(みちび)かれ、東征軍(とうせいぐん)は吉野川(よしのがわ)沿(ぞ)いを北上(ほくじょう)。山中(さんちゅう)の土豪(どごう)たちを次々(つぎつぎ)と帰順(きじゅん)させ、あるいは討伐(とうばつ)し、ついに宇陀(うだ)――現在(げんざい)の奈良県宇陀市(ならけんうだし)――に到達(とうたつ)する。
ここで起(お)こったのが、有名(ゆうめい)な「金鵄伝説(きんしでんせつ)」だ。長髄彦(ナガスネヒコ)軍(ぐん)との戦闘中(せんとうちゅう)、金色(きんいろ)に輝(かがや)く霊鵄(れいし)――金鵄(きんし)――がイワレビコの弓(ゆみ)の先(さき)に止(と)まり、稲妻(いなずま)のような光(ひかり)を放(はな)った。長髄彦(ナガスネヒコ)軍(ぐん)の兵士(へいし)たちは目(め)がくらみ、戦(たたか)えなくなったという。戦前(せんぜん)の日本(にほん)では「金鵄勲章(きんしくんしょう)」というメダル(めだる)にもなった、まさに伝説(でんせつ)の場面(ばめん)である。
長髄彦との決戦――ニギハヤヒの寝返り
いよいよ最終決戦(さいしゅうけっせん)。長髄彦(ナガスネヒコ)は使者(ししゃ)を立(た)ててこう言(い)った。「我(われ)らは天磐船(あめのいわふね)で天(てん)から降(くだ)った天神(てんじん)の御子(みこ)・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に仕(つか)えてきた。なぜ同(おな)じ天神(てんじん)を名乗(なの)る者(もの)が二人(ふたり)いるのか」――。
両者(りょうしゃ)は「天羽々矢(あめのははや)」と「歩靫(かちゆき)」という天孫(てんそん)の証(あかし)を見(み)せ合(あ)った。確(たし)かにニギハヤヒも本物(ほんもの)の天神(てんじん)の子孫(しそん)だった。しかし長髄彦(ナガスネヒコ)は戦(たたか)いをやめなかった。ここでニギハヤヒは衝撃(しょうげき)の決断(けつだん)をする――自分(じぶん)の主君(しゅくん)であり義兄(ぎけい)でもある長髄彦(ナガスネヒコ)を殺(ころ)し、イワレビコに帰順(きじゅん)したのだ。
ニギハヤヒは、のちに大和(やまと)の有力豪族(ゆうりょくごうぞく)・物部氏(もののべし)の祖神(そしん)となる。最後(さいご)の障害(しょうがい)が取(と)り除(のぞ)かれ、大和(やまと)はついにイワレビコのものとなった。
橿原宮で即位――紀元前660年、建国の日
大和平定(やまとへいてい)後(ご)、イワレビコは畝傍山(うねびやま)の東南(とうなん)、橿原(かしはら)の地(ち)に宮(みや)を構(かま)えた。そして紀元前660年(旧暦(きゅうれき)1月1日)――新暦(しんれき)に換算(かんさん)すれば2月11日(がつ じゅういちにち)――、ついに初代天皇(しょだいてんのう)「神武天皇(じんむてんのう)」として即位(そくい)した。日向(ひゅうが)を出(で)てから、『日本書紀(にほんしょき)』では6年(ねん)、『古事記(こじき)』では16年(ねん)以上(いじょう)の長旅(ながたび)の末(すえ)のことだった。
この即位日(そくいび)こそ、現在(げんざい)の祝日(しゅくじつ)「建国記念(けんこくきねん)の日(ひ)」(2月11日)の由来(ゆらい)である。1873年(明治(めいじ)6年)に「紀元節(きげんせつ)」として制定(せいてい)され、戦後(せんご)一時廃止(いちじはいし)されたものの、1966年(昭和(しょうわ)41年)に「建国記念(けんこくきねん)の日(ひ)」として復活(ふっかつ)した。神話(しんわ)の即位日(そくいび)が、今(いま)も日本(にほん)のカレンダー(かれんだー)に生(い)きているのだ。
関連神社|神武東征を祀る・一緒に祀られる神社
神武東征(じんむとうせい)の旅路(たびじ)には、今(いま)も参拝(さんぱい)できる神社(じんじゃ)が点在(てんざい)している。主祭神(しゅさいじん)として祀(まつ)る神社・一緒(いっしょ)に祀(まつ)られる関連神社(かんれんじんじゃ)・静岡県内(しずおかけんない)の関連神社(かんれんじんじゃ)に分(わ)けて聖地巡礼(せいちじゅんれい)の参考(さんこう)にどうぞ。
主祭神として祀る神社
- 橿原神宮(かしはらじんぐう)(奈良県橿原市)――神武天皇と皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を祀る。1890年(明治23年)創建。東征のゴール地点。https://kashiharajingu.or.jp/
- 宮崎神宮(みやざきじんぐう)(宮崎県宮崎市)――東征出発の地・日向に鎮座。神武天皇を主祭神として祀る。スタート地点。
- 神武天皇陵(畝傍山東北陵)(奈良県橿原市大久保町)――神武天皇の御陵。橿原神宮の北側に隣接。
一緒に祀られる関連神社
- 宇佐神宮(うさじんぐう)(大分県宇佐市)――宇佐津彦が神武を饗応した地。八幡信仰の総本宮。http://www.usajinguu.com/
- 熊野本宮大社(和歌山県田辺市)――熊野迂回の中心地。家都美御子大神を主祭神とし、八咫烏を神使とする。https://www.hongutaisha.jp/
- 熊野那智大社・熊野速玉大社(和歌山県)――熊野三山として東征熊野ルートを構成。
- 八咫烏神社(奈良県宇陀市)――八咫烏が神武を導いたとされる地に鎮座。https://yatagarasujinja.net/
- 率川神社(いさがわじんじゃ)(奈良県奈良市)――皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命を祀る奈良市最古の神社。
全国の関連神社(地域別)
神武東征ゆかりの神社を地域別にご紹介します。
関東:橿原神宮の遥拝社
中部:富士山本宮浅間大社(静岡県・神武の先祖筋)、高塚熊野神社(静岡県浜松市)、三嶋大社(静岡県)
近畿:橿原神宮(奈良県橿原市・神武即位の地)、楯津神社(大阪府東大阪市・神武東征の戦場)、神武天皇陵(奈良県橿原市)、熊野本宮大社(和歌山県・八咫烏が神武を導いた地)
九州:宮崎神宮(宮崎県・神武の出立地)、皇宮神社(宮崎県)
歴史と神話の境界――考古学はどう見るか
紀元前660年(きげんぜん660ねん)の即位(そくい)――これを文字通(もじどお)り信(しん)じる学者(がくしゃ)は、現代(げんだい)の歴史学(れきしがく)にはほぼいない。歴史学(れきしがく)・考古学(こうこがく)の主流(しゅりゅう)は、神武東征(じんむとうせい)を「8世紀(せいき)の記紀編纂時(ききへんさんじ)に、当時(とうじ)の政治状況(せいじじょうきょう)を過去(かこ)に投影(とうえい)した物語(ものがたり)」と見(み)ている。
ただし、九州(きゅうしゅう)から畿内(きない)への文化(ぶんか)・人(ひと)の流(なが)れがあったこと自体(じたい)は、土器(どき)や青銅器(せいどうき)の分布(ぶんぷ)から確実視(かくじつし)されている。「神武東征」はフィクションだが、東遷(とうせん)という現象(げんしょう)そのものは、何(なん)らかの史実(しじつ)を反映(はんえい)しているかもしれない――そう考(かんが)えると、この物語(ものがたり)の見方(みかた)が一気(いっき)に深(ふか)くなる。
まとめ
南九州(みなみきゅうしゅう)の片隅(かたすみ)から、瀬戸内海(せとないかい)を渡(わた)り、兄(あに)を失(うしな)い、熊野(くまの)の山(やま)で死(し)にかけ、神鳥(しんちょう)と霊剣(れいけん)に助(たす)けられ、ついに大和(やまと)の地(ち)で初代天皇(しょだいてんのう)となる――。神武東征(じんむとうせい)は、日本(にほん)という国(くに)の原点(げんてん)を語(かた)る、最古(さいこ)にして最大級(さいだいきゅう)の冒険譚(ぼうけんたん)である。
2月11日(がつ じゅういちにち)の祝日(しゅくじつ)にこの物語(ものがたり)を思(おも)い出(だ)すと、ただの「休(やす)みの日(ひ)」がぐっと意味深(いみぶか)いものに変(か)わる。あなたも一度(いちど)、東征(とうせい)ゆかりの神社(じんじゃ)を巡(めぐ)る旅(たび)に出(で)てみてはいかがだろうか。
宮崎(みやざき)から大和(やまと)までの距離(きょり)は、直線(ちょくせん)でも約(やく)700キロ。当時(とうじ)の船(ふね)と徒歩(とほ)でこの距離(きょり)を踏破(とうは)し、いくつもの戦(いくさ)を勝(か)ち抜(ぬ)き、兄(あに)を失(うしな)ってもなお進(すす)み続(つづ)けたイワレビコ。神話(しんわ)か史実(しじつ)かを超(こ)えて、この「諦(あきら)めない男(おとこ)」の姿(すがた)には、2000年(ねん)以上(いじょう)経(た)った今(いま)でも胸(むね)を打(う)たれるものがある。日本(にほん)という国(くに)の原風景(げんふうけい)は、ここにある。
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- 八咫烏(やたがらす)――三本足(さんぼんあし)の導(みちび)きの神鳥(しんちょう)
- 邇邇芸命(ニニギノミコト)――天孫降臨(てんそんこうりん)と神武(じんむ)の系譜(けいふ)
参考
- 神武東征 – Wikipedia
- 神武天皇 – Wikipedia
- 橿原神宮について – 橿原神宮 公式サイト
- 熊野本宮大社について – 熊野本宮大社 公式サイト
- 歴史略年表 | 八幡総本宮 宇佐神宮
- 神武東征 – 八咫烏神社
- 金鵄 – Wikipedia
- ニギハヤヒ – Wikipedia
- 高島宮 – Wikipedia
- 紀元節 – Wikipedia
- 市長コラム「神武東遷」(平成30年5月号)| 宇佐市公式
- 「吉備国 高島宮」はどこ?岡山県内の神武天皇伝説地4選 | 岡山観光WEB(公式)
- 神武東征、ヤタガラスの導き:熊野の説話
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